テレの日記

ボクの日記です。お母さんの記録もしています。

板長が辞めた

お母さんは4年前からとある町の日本料理屋さんで、土日だけお昼の3時間だけ

アルバイトに来ています。

 

出来た料理を運び、食事の終わったお皿を下げ、お客様のお世話をします。

一般的に仲居さんと呼ばれるお仕事です。

 

老舗というほど歴史は深くありませんが、30年は続いている会席料理のお店です。

実は同じ町に本店があり、本店はとんかつ屋さんですが2号店として会席料理を出す

日本料理屋として始まったお店でした。

 

繊細な味が評判で、バブルの時代は周辺の料理屋から嫌がらせを受けるほどの人気で、

この町では知らない人はいないお店でした。

 

そんな26年前、当時30歳だった板長は、病気で急死した前板長の後継として、

お店の取引先の築地の水産関係の会社から「若いけど、すごくいい味を出す料理人が

いるから後継にどうか」と紹介され、このお店にやって来ました。

 

おかみさんは当時、まだ大学生だったそうです。

お店が忙しい時から先代のおかみさんに言い付けられ、よくお店のお手伝いをしていた

そうです。板長は入ったばかりでもこのクソ忙しい板場を切り盛りし、美しく繊細な

料理を手早く作って行く姿に、おかみさんはただただ驚くばかりだったそうです。

 

板長は仕事に厳しい方でした。

絵に描いたような鬼瓦みたいな強面の風貌なのに、仕事は丁寧で繊細で、何でもよく気付き、

若い板前に厳しい指導をしながらも、自らも皿洗いをするような人でした。

 

ただ厳しいわけではなく、ちょっとした時に冗談を言ったり、お母さんのような仲居にも

調理のコツを教えてくれたりしました。

季節で献立が変わる時の仲居向けの試食会でも、その繊細な料理の作り方を惜しまず

教えてくれました。

 

作り方を理解していれば、食べる時のいちばんいい状態が仲居にも分かるから、

お客さんにも最高の味の状態で届けられると、いつも板長は言っていました。

 

お母さんはそんな板長が大好きでした。いえ、お母さんだけじゃありません。

みんな板長が大好きでした。板長がいないこのお店なんて、あり得ませんでした。

 

先週、お母さんが出勤して着物に着替えていると、仲居仲間のおばちゃんが、

板長辞めるんですってねぇ…とため息をつきながら言ってきました。

お母さんはびっくりして、どうして!と聞くと、山形の実家のお父様が倒れられて、

お家の家業を継ぐ事になったそうよ、と。

 

いつ辞めるのか聞くと、なんだか急な話で今週中とか来週までとか…との事。

お母さんはびっくりするやら仕方のない事やらで動揺しながらも、板長とお話がしたくて

お仕事中お話が出来る機会を伺っていましたが、忙しくて話しかけられず、その日は仕事が

終わってしまいました。

 

来週は板長いるかしら、と思いながらお母さんは着物から着替えて外に出ると、

ちょうど板長が帰るところでした。お母さんは駆け寄り、辞めてしまわれるんですね、

びっくりしましたと話しかけました。

 

板長は悲しそうに、寂しそうに、実は自分がいちばんびっくりしてるんだと話してくれました。

どうしても実家に帰らねばならず、ここを辞めるなんて一度も考えたことはなく、一生ここで

働くと思っていたと。

 

お母さんが、このお店は板長がいるから成り立っているのに、どうなっちゃうんですかねと

いうと、板長はしみじみ悲しそうに言いました。

このお店も心配だけど、やっぱり家族。息子は4月に中学生になったばかりで、学校を

いきなり変えるのも息子が心配だから、しばらく家族を置いて、自分だけ山形に行くと。

 

このままここで、大好きな料理の仕事をしながら、家族と一緒に生きていきたかったと。

お母さんは板長の思いが伝わってきて、なんて言っていいか、お母さんはいつまでですかと

聞くと板長は28日までだよと。お母さんは来週土日ともに出勤ですから、来週もよろしく

お願いしますと言って帰ってきました。

 

そして昨日、25日にお母さんが帰宅してメールを見ると、お店の旦那さんから

「今日、板長が退職しました」とのお知らせが入っていました。

お母さんは、あぁ、退職日が早まったのかとガッカリしました。

 

そして今日、お母さんが出勤して着物に着替えていると、おかみさんも出勤してきて

着替えながら、板長今日からいないんだよねぇ…と言ってきました。

そして冒頭でお話したような、おかみさんのエピソードが語られました。

 

板長のいない板場で、今日も仕事が始まりました。

みんななんとなく、寂しそうに働いてました。

 

もうお昼の営業も終わる14時頃、思いがけず板長が最後の挨拶に来ました。

運良くお母さんも居合わせる事が出来ました。

 

板長は奥様と、板長そっくりの可愛くてニコニコした中学生の息子さんと一緒でした。

お母さんは、「板長!よかった!会えた!お世話になりました!」と言いました。

板長はお母さんの顔を見ると、ニコッとして、みんなの顔を見渡して、何度か頷いて、

うるっとしました。

 

そして頭を下げて、裏口から出ました。

みんな、「ありがとうございました!」と一礼しました。

 

板長が裏口から出ると、みんな寂しそうに仕事に戻りました。

おかみさんは涙を浮かべて御膳を拭いていました。

お母さんが、「おかみさん、行かなくていいんですか」と言うと、

おかみさんは涙を拭いて、「ごめん、ちょっと行ってくる!」と言って板長を

追いかけました。

 

しばらくして戻ってきたおかみさんは、涙で少しお化粧が崩れていました。

みんな見ないフリをしました。

 

板場の新しく板長に任命された板長の右腕だった30代の板前さんが、板長直伝のおむすびを

賄いで作って、おかみさんに差し出しました。

 

おかみさんは大口で頬張り、美味しいね、と言いました。