テレの日記

ボクの日記です。お母さんの記録もしています。

転職漂流記〜株式会社にゃんメンソーレ編〜後編

沖縄にやって来たお母さん。

取り敢えずバイトをしようと考えて、沖縄の地元求人雑誌を手に取りました。

後にこの求人雑誌に関わる事になろうとは、つゆさえ思わなかったお母さんでした。。。

 

求人雑誌はいろんな職種がありましたが、大半は飲食店やホテルの従業員でした。

時給はとても低く、当時コンビニの店員が神奈川県で800円位だったのに対し、

沖縄では600円位でした。しかも、どこもみんな最低賃金しか出しませんでした。

 

これは思った以上に生きてくのが大変そうだぞ、とお母さんは思いましたが、

まぁとにかく来たばっかだし、と気を取り直して那覇に本社がある沖縄で当時

一番大きな会社の株式会社にゃんメンソーレの本社の最上階にある、一般公開

されたレストラン兼社員食堂のホールと調理補助のバイトを始めました。

 

この食堂ではナイチャーをバイトに雇うのは初めてらしく、面接の時点で従業員が

ちらちらとお母さんの顔を興味津々に見てきて、店長さんが「あっち行ってろ!」

と追いやっていました。

 

昼も夜もシフトに入れるという事で、お母さんはすぐ採用になりました。

仲間はみんな楽しくて、ナイチャーに優しく、いろんな沖縄の歴史や文化、生活の違い、

言葉の違い、米軍基地の事などなどいろいろ教えてくれました。

 

そんなある日、経費削減で一人か二人辞めさせないといけない事態が起きました。

 

社員は店長と料理長と副料理長の3人。他は全員パートやバイトでした。

ホールの女の子はみんな20代で若く、お母さん以外全員結婚していました。

調理補助のおばちゃんが2人いて、一人は主婦ですがもう一人はシングルマザーでした。

 

店長さんは悩んだ結果、調理補助の主婦のおばちゃんに辞めてもらう事にしました。

おばちゃんは、主婦だけど生活が困るから来てるのにそれは困ると訴えました。

 

店長さんはそんな事言われても、一人は必ず辞めてもらわないといけないし、誰か立候補

でもすれば別だけど、どうか分かってくれと頼みました。

沖縄はとても貧しく、同じ日本なのに賃金がとても低いので家族みんなで暮らして、

みんなで働いて支え合って生きてる町です。

 

みんな、自分の生活でいっぱいいっぱいなので「私辞めます」なんて人はいません。

お母さんは、独りで生きて行くにはいずれどこか社員として就職先を探さなければ

ならないと考えていたので、店長さんに「私が辞めます」と翌日名乗り出ました。

 

店長さんは、昼も夜もシフトに入ってくれてホールも調理補助も出来るあなたに

辞められるとかえって困る、と言ってくれましたが、でもいつまでもここでバイトだと

私も生きていけないのでと言い、店長さんは仕方なく承諾しました。

 

お母さんだって、ほんとは辞めたくありません。もっと頑張って、社員にしてくれるよう

お願いしてみようと思ってたくらいです。でも、これもきっと運命で神様が沖縄の他の

企業も行ってみろと言ってるんだと信じ、にゃんメンソーレを後にしました。

 

次は社員を探していましたが、ナイチャーと聞いただけで「どうせ、すぐ内地に帰るさね」

と言われ、門前払いでなかなか仕事が見付からないので、仕方なくリゾートホテルの配膳の

バイトをしながら就職活動をしました。

 

リゾートホテルの配膳の仕事はとてもキツく、人も意地悪な方が多くてとても大変でした。

そんな中、地元求人雑誌を見ていると、その求人雑誌の会社自体が編集者の募集を

していました。

 

お母さんはその求人内容をよく見ました。

 

学歴不問、30歳くらいまで、雑誌編集経験または印刷関連経験者優遇、

Illustrator・Photoshop・in Design使用できる方。

 

雑誌編集と印刷経験はないけど、ディスプレイデザイン経験でDTP知識はある!

in Designは使った事ないけど、IllustratorとPhotoshopはむしろ得意!!

3年位ブランクはあるけど、この小さい町で果たしてこの条件にピッタリ合うヤツ

なんているか?いや、私しかいないでしょう!!

 

なんの根拠からこの自信と確信があるのかボクには分かりませんが、

お母さんはこの求人雑誌社の有限会社にゃんにゃん求人に履歴書を

送ったのでした。

 

…有限会社にゃんにゃん求人編に続く。。。

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