テレの日記

ボクの日記です。お母さんの記録もしています。

転職漂流記〜有限会社にゃんにゃん求人編〜前編〜

求人雑誌の求人に応募したお母さん。

お母さんの読み通り、当時の沖縄にDTP知識があってデザインソフトが使える

人材はなかなかいなくて、面接と同時に即採用でした。

 

正社員で広告デザイン担当です。

広告デザインと言っても大手広告代理店みたいなカッコイイ感じではなく、

あくまでも地元の求人広告のデザインです。

 

にゃんにゃん求人では、地元沖縄県内の求人チームと内地に出稼ぎ目的の県外求人担当

の主に2つに分かれてました。お母さんはナイチャーなので県外求人担当になりました。

担当営業はお父さんがナイチャー出身という梶原さんという30代の男性でした。

 

梶原さんは内地企業の請負会社に営業として行き、広告イメージをもらって持ち帰り、

デザイナーのお母さんに広告イメージを伝えます。

お母さんは広告規定に基づいてデザインし、ゲラを作って梶原さんに渡し、クライアントが

OKを出したら広告に載せます。

 

隔週月曜日発行なので、隔週で夜中までの残業の日がやってきます。

印刷屋さんの締め切り時間は午後11時です。広告というのは不思議なもので、

OKが出てるはずのものでも直前に変更になったりします。

 

特に求人誌は待遇内容が変更になる事が多く、内地出稼ぎ向けの会社はより安く人件費を

下げて雇いたいため、沖縄のような賃金が低い地域の人の採用は争奪戦でした。

 

なのでA社が月給18万円なら我が社は18万5千円出すぞと変更になったり、我が社は寮が無料

だぞとアピールポイントを追加してきたりと、とにかくまぁ締め切りの時間ギリギリまで

クライアントから連絡が入り、まさに締め切りの日は戦争でした。

 

でも、お母さんは楽しく仕事していました。

大好きなデザインがまた出来て、DTPの知識はまたスキルアップし、

沖縄の人とより交流出来、もうずっと沖縄にいようと思いました。

 

でも、正直お給料が低すぎて生活は苦しい毎日でした。

忘れてはならないのが、ここは日本であるという事。

 

家賃や飲み食いが神奈川に比べて破格とはいえ、ここは日本。

衣服だって少しは買わなくてはいけませんが、こういうのは内地と変わらない金額です。

こういうちょこちょことした、節々やっぱり日本の物価と思えることは案外日常にあり、

こうしてほんの少しの出費がとても痛く、次第にお母さんの生活は辛くなっていきました。

 

沖縄の人が、家族で支え合って生きていく意味を体で実感したお母さんは、だんだん沖縄

で一人で生きていく事に不安を覚えました。お母さんは現金が足りなくなり、

クレジットカードで分割払いで買い物するようになりました。

 

決して、衣類やブランドバックを買ってるわけではありません。

普通の普段食事にする食材を買ってるだけなのですが、ポイントが貯まるからという

理由ではなくただただ現金がないから、クレジットカードを使ったのです。

 

今でこそお母さんはポイントのためにクレジットカードを賢く使えてますが、

当時は沖縄での生活が苦しすぎてのカードでした。

なのでお母さんのカードの金額はついに100万円を達しました。

さすがにそろそろヤバいぞ、と思うお母さんでした。

 

そんな中、お母さんが入社した時に入れ替わりで辞めた山城さんという女性の

デザイナーが戻ってきました。。。

 

〜有限会社にゃんにゃん求人後編に続く〜